1-14 誡誹謗の御文 (かいひほう)のおふみ
おはようございます。今日は天気もよくって本堂に朝日が差し込みサラも一番あったかい場所で朝日を浴びて気持ち良さそうでした。 猫は一番いい場所を見つける天才ですね。😃
お浄土にも猫がたくさんいる事でしょう。
今日は阿弥陀経をお勤めしました。
一緒にお勤めをすることはお釈迦様の教えに身を浸すことです。
最初は難しくても続けるうちに頭ではなく身体に教えが染み込んでくるということがあります。 いまインターネットで僧侶の法話も増えてきて素晴らしいですが、まずはお勤めをしてお話を聞きその後、自分自身に自問自答する。この三点が大切だと思います。この三つが揃って日常の生活の何気ないところに大切な教えがあることに気がつかされるのです。
それでは今日も一緒にお参りいたしましょう! 🙏
誡誹謗の御文 (かいひほう)のおふみ
(1ー14)
そもそも、当流念仏者のなかにおいて、諸法を誹謗すべからず。まづ越中・加賀ならば、立山・白山そのほか諸山寺なり。越前ならば、平泉寺・豊原寺等なり。されば『経』(大経)にも、すでに「唯除五逆誹謗正法」とこそこれをいましめられたり。これによりて、念仏者はことに諸宗を謗ずべからざるものなり。また聖道諸宗の学者達も、あながちに念仏者をば謗ずべからずとみえたり。
そのいはれは、経・釈ともにその文これおほしといへども、まづ八宗の祖師龍樹菩薩の『智論』(大智度論)にふかくこれをいましめられたり。その文にいはく、「自法愛染故毀呰他人法 雖持戒行人不免地獄苦」といへり。かくのごとくの論判分明なるときは、いづれも仏説なり、あやまりて謗ずることなかれ。それみな一宗一宗のことなれば、わがたのまぬばかりにてこそあるべけれ。ことさら当流のなかにおいて、なにの分別もなきもの、他宗をそしること勿体なき次第なり。あひかまへてあひかまへて、一所の坊主分たるひとは、この成敗をかたくいたすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
[文明五年九月下旬]1473年
感話
今も昔も宗教同士の争いがあるのですね。痛ましいことです。
そもそも宗教はどんな宗教であっても安らぎを求めたい、共に救われたいという共通の願いがあるはずですが、教えを私が聞くのではなく、人に聞かそうとする時却って人を傷つけてしまうことがあるのです。 平和のために戦争をしたり、子供のためにと言って子供を束縛したり、おじいちゃん、おばあちゃんのためと言って却って行動を縛ってしまったり。
会社でも部下のため、会社のためと言って人を責めたり、自己弁護したり・・・・ 現在はコロナを防ぐためと言って、若者を責めたり、老人を家に閉じ込めたり。
宗教に限らず、一つの世の中のトレンドに乗っかって自分を主張したり、弁護する盾に利用する心が却って人を傷つけ、巡り巡って自分をも傷つけることになるのです。
まさにもったいない事です。 そういう私の闇を照らして教えてくれるのが念仏の教えなのだと思います。 ですから他力といい本願力の念仏と何度も強調されるのでしょう。
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