2-12 人間50年の御文



人間五十年の御文

(2ー12)

 それ、人間の五十年をかんがへみるに、四王天といへる天の一日一夜にあひあたれり。またこの四王天の五十年をもつて、等活地獄の一日一夜とするなり。これによりて、みなひとの地獄におちて苦を受けんことをばなにともおもはず、また浄土へまゐりて無上の楽を受けんことをも分別せずして、いたづらにあかし、むなしく月日を送りて、さらにわが身の一心をも決定する分もしかしかともなく、また一巻の聖教をまなこにあててみることもなく、一句の法門をいひて門徒を勧化する義もなし。ただ朝夕は、ひまをねらひて、枕をともとして眠り臥せらんこと、まことにもつてあさましき次第にあらずや。しづかに思案をめぐらすべきものなり。

このゆゑに今日今時よりして、不法懈怠にあらんひとびとは、いよいよ信心を決定して真実報土の往生をとげんとおもはんひとこそ、まことにその身の徳ともなるべし。これまた自行化他の道理にかなへりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 時に文明第六、六月中の二日、あまりの炎天の暑さに、これを筆にまかせて書きしるしをはりぬ。

感想

今回印象に残った注を下に貼り付けておきますね。四天王って天の一番下のくらいなんですね! でも人間界に近い神様だから親しみがあるのかな? 神様の1日が人間の50年に当たるって面白い考え方ですね。でも地獄の1日はさらに天界の50年分ですから

人間にとっては地獄の1日は250年分に感じるわけです。きついですね! 楽しいことは早く過ぎるし、苦しいことは長く感じるのもそういうわけかもしれません。

四天王

してんのう

 四王・四天大王ともいう。須弥山しゅみせんの中腹にある四王天にあって、帝釈天たいしゃくてんに仕えて仏法を守護する護法神。すなわち

東方の持国天じこくてん(Dhŗtarāşţra 題頭隷吒だいずらた提頭頼吒だいずらた)、
南方の増長天ぞうじょうてん(Virūđhaka 毘留茶倶びるだく毘楼勒びるろく毘楼勒叉びるろくしゃ)、
西方の広目天こうもくてん(Virūpākşa 毘留博叉びるはくしゃ毘楼博叉びるはくしゃ)、
北方の多聞天たもんてん(Vaiśravaņa 毘沙門天びしゃもんてん

をいう。


中の二日

なか-ふつかのひ

 中旬の第二日。すなわち十二日のこと。(御文章 P.1128)


中の二日が12日のことって初めて知りました! 注は読むものですね。。。。。

この御文は僧侶にあてて書かれたものです。簡潔に言えば「勉強しなさい!」ってことですね。。。。
私も子供の頃から親に怒られ、僧侶になっても御門徒や先輩方に言われ続けていることで耳が痛いことです。
最近50歳超えて、朝起きれるようになってきましたが、昼寝したり、勉強より遊んだりぼーーーーとしたりが好きです。
今は毎日、この中継と御文の感想文が日課になってちょっと勉強になっていますが、いつまで続くやら。
 でも、今は生きがいになってきてます。 コロナ騒ぎの中、生まれてきた自分や他人の人生を見直す機会になっていると感じます。ほんと人間の命は蜻蛉やセミのようにはかなく短い人生だという言葉に実感を持たざるを得ない状況ですね。
 私としてはいい機会と捉えて皆が共に改めて優しく助け合う時代の幕開けになったらと願っています。

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