1-15 宗名の御文 浄土真宗 蓮如上人 ゲド戦記と名号(南無阿弥陀仏)

おはようございます。毎朝朝7:30からお参りを生中継しております。 一緒にお参りしましょう。

 今日もブラジルのマリリアはいい天気でサラも朝から本堂で日向ぼっこです。 サラちゃんとファビアと私3人が本堂にいます。ネット中継を毎日のように見てくださる方も数人から時には数十人おいでになるので遠く離れていても一緒にお参りできるのは嬉しいです。


今日は阿弥陀経のお勤めです。

伽陀

阿弥陀経 8ページ

短念仏
和讃 十方微塵世界の 添 万行の  50ページ

御文 1−15

となっています。 それでは動画をどうぞ。



(1-15)  宗名の御文


 問うていはく、当流をみな世間に流布して、一向宗となづけ候ふは、いかやうなる子細にて候ふやらん、不審におぼえ候ふ。

 答へていはく、あながちにわが流を一向宗となのることは、別して祖師(親鸞)も定められず、おほよそ阿弥陀仏を一向にたのむによりて、みな人の申しなすゆゑなり。しかりといへども、経文(大経・下)に「一向専念無量寿仏」と説きたまふゆゑに、一向に無量寿仏を念ぜよといへるこころなるときは、一向宗と申したるも子細なし。さりながら開山(親鸞)はこの宗をば浄土真宗とこそ定めたまへり。されば一向宗といふ名言は、さらに本宗より申さぬなりとしるべし。されば自余の浄土宗はもろもろの雑行をゆるす、わが聖人(親鸞)は雑行をえらびたまふ。このゆゑに真実報土の往生をとぐるなり。このいはれあるがゆゑに、別して真の字を入れたまふなり。

 またのたまはく、当宗をすでに浄土真宗となづけられ候ふことは分明にきこえぬ。しかるにこの宗体にて、在家の罪ふかき悪逆の機なりといふとも、弥陀の願力にすがりてたやすく極楽に往生すべきやう、くはしく承りはんべらんとおもふなり。

 答へていはく、当流のおもむきは、信心決定しぬればかならず真実報土の往生をとぐべきなり。さればその信心といふはいかやうなることぞといへば、なにのわづらひもなく、弥陀如来を一心にたのみたてまつりて、その余の仏・菩薩等にもこころをかけずして、一向にふたごころなく弥陀を信ずるばかりなり。これをもつて信心決定とは申すものなり。信心といへる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑに、まことのこころとは申すなり。また名号をもつてなにのこころえもなくして、ただとなへてはたすからざるなり。

されば『経』(大経・下)には、「聞其名号信心歓喜」と説けり。「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。

これを『経』に「信心歓喜」と説かれたり。これによりて、南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。かやうにこころえてのちは、行住坐臥に口にとなふる称名をば、ただ弥陀如来のたすけまします御恩を報じたてまつる念仏ぞとこころうべし。これをもつて信心決定して極楽に往生する他力の念仏の行者とは申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

 [文明第五、九月下旬第二日巳剋に至りて加州山中湯治の内にこれを書き集めをはりぬ。]

                [釈証如](花押)



感話   名前の大切さ


一向宗とはひたすら阿弥陀仏に帰依することから名付けられているのですが、私が参考にしている本現代の聖典 蓮如五帖御文

には蓮如上人はあまりこの名前が好きでなかったようだ、と書いてあるのが印象的でした。

 その理由に二つあって、その一つが「一向宗という俗称には誹謗の意味が込められていると感じたからだと思われる」

と書いてあります。 もう一つの理由として「一向俊聖の一向宗(時宗 一向派)と混同される事を避けるためとの指摘もされている」とあって興味を惹かれました。


現代の聖典 蓮如五帖御文
私が毎日参考にしている本です↑

浄土宗、浄土真宗、禅宗、などいろいろな宗派の名前にも大切な意味が込められているのは当然ですね。現代の会社でもソニーとかブリジストンとか色々言われがあって大切にされています。

  人間は何にでも名前をつけます。子供にも草花にも、私の好きな影との戦い―ゲド戦記〈1〉 (岩波少年文庫)というおはなしがありますが、この小説の鍵になるのが真の名前です。すごく面白いのでぜひ読んでみてください。アニメのゲド戦記の100倍面白いですよ! 宮崎駿のアニメの骨格になっている名作です。

 この本を読むとなぜ「南無阿弥陀仏」というほとけの名が力を持つのか? ひとつのヒントになると思います。



そして、御文の後半には南無阿弥陀仏とただ唱えるのではなく、

雑行を捨てて一心に阿弥陀仏を頼むことを信心を得る事だと教えています。 さらに念を押して、それは自力の悪い心ではなく、阿弥陀仏の本願力のよいこころによって救われる、それを他力の心というと教えてくださっています。だから念仏は唱えるのではなく聞くのだと最初に述べているのです。 ゲド戦記でも真実の名前を明かせるものは信頼しあったものだけという話があります。つまり人間は自分自身の本当の名前を忘れてしまっているところに人生の闇の原因があるのです。

南無阿弥陀仏を称なえるのは私自身の本当の名前を明らかに教えてくれた感謝の祈りなのではないでしょうか。

 そのためには善知識(師)に教えてもらうひつようがあると書いてあるのに注目です。

 それでは、また明日一緒にお参りいたしましょう。



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