投稿

2-1 御さらえの御文  ー 繰り返すことの大切さ ー

イメージ
 おはようございます。今日は親鸞聖人の「正信偈」をお勤めしたました。  お経のない方はこちらからダウンロードしてください。もちろん無料です。 それでは一緒にお勤めしましょう。 浄土真宗の教えを頭だけでなく身をもって体得するには生活を通して体感することが大事なんでしょう。ですから、まずお勤めをして法語を読んで、感想を述べる。話し合いをするの3点を一緒にセットとして学ぶのが大切なのです。  私も53歳になってますます歳をとってしまい、元々弱い体がますます弱くなっていますが、幸い最近はYouTubeで身体のメンテナンスの動画がたくさんあるので見ています。 見てるだけでは効かないのでやってみます。そうすると体の反応で自分にはその運動があっているか、正しくやっているのかわかります。 意外と自分には合わないと思ってやってみるとすごい効果があったりして、自己判断がいかに当てにならないかわかります。 仏教の教えも、そのお話を聞くだけでなくお勤めをしてみる。「南無阿弥陀仏」と念仏をしてみる。お勤めをしてみる、そして感想を書き留めたり、人と話したりする中で身でわかってくるものがあると思っております。 ぜひ、一緒にお参りしましょう! (2ー1) 御さらえの御文  そもそも、今度 一七箇日 報恩講 のあひだにおいて、 多屋 内方 もそのほかの人も、大略信心を決定したまへるよしきこえたり。 めでたく 本望これにすぐべからず。さりながら、そのままうちすて候へば、信心もうせ候ふべし。 細々に 信心の溝をさらへて、弥陀の法水を流せといへることありげに候ふ。 それについて、 女人の身は 十方三世の 諸仏にもすてられたる 身にて候ふを、阿弥陀如来なればこそ、かたじけなくもたすけましまし候へ。そのゆゑは、女人の身はいかに真実心になりたりといふとも、疑の心はふかくして、また 物なんどの いまはしくおもふ心はさらに失せがたくおぼえ候ふ。ことに在家の身は、 世路 につけ、また子孫なんどのことに よそへても 、ただ今生にのみふけりて、これほどに、はや目にみえて あだ なる人間界の 老少不定 のさかひとしりながら、ただいま三途八難に沈まんことをば、露ちりほども心にかけずして、いたづらにあかし暮すは、これつねの人のならひなり。 あさまし といふも おろか なり。 これによりて 一心一向 に弥陀一仏の悲願に帰して、ふ

1-15 宗名の御文 浄土真宗 蓮如上人 ゲド戦記と名号(南無阿弥陀仏)

イメージ
おはようございます。毎朝朝7:30からお参りを生中継しております。 一緒にお参りしましょう。  今日もブラジルのマリリアはいい天気でサラも朝から本堂で日向ぼっこです。 サラちゃんとファビアと私3人が本堂にいます。ネット中継を毎日のように見てくださる方も数人から時には数十人おいでになるので遠く離れていても一緒にお参りできるのは嬉しいです。 今日は阿弥陀経のお勤めです。 伽陀 阿弥陀経  8ページ 短念仏 和讃 十方微塵世界の 添 万行の  50ページ 回向 願以此功徳 御文 1−15 宗名の御文 となっています。 それでは動画をどうぞ。 (1-15)  宗名の御文  問うていはく、当流をみな世間に流布して、一向宗となづけ候ふは、いかやうなる子細にて候ふやらん、不審におぼえ候ふ。  答へていはく、あながちにわが流を一向宗となのることは、 別して 祖師(親鸞)も定められず、おほよそ阿弥陀仏を一向にたのむによりて、みな人の申しなすゆゑなり。しかりといへども、経文(大経・下)に「一向専念無量寿仏」と説きたまふゆゑに、一向に無量寿仏を念ぜよといへるこころなるときは、一向宗と申したるも子細なし。さりながら 開山 (親鸞)はこの宗をば浄土真宗とこそ定めたまへり。されば一向宗といふ名言は、さらに本宗より申さぬなりとしるべし。されば 自余の浄土宗 はもろもろの雑行をゆるす、わが聖人(親鸞)は雑行をえらびたまふ。このゆゑに真実報土の往生をとぐるなり。このいはれあるがゆゑに、別して真の字を入れたまふなり。  またのたまはく、当宗をすでに浄土真宗となづけられ候ふことは分明にきこえぬ。しかるに この宗体 にて、在家の罪ふかき 悪逆 の機なりといふとも、弥陀の願力にすがりてたやすく極楽に往生すべきやう、くはしく承りはんべらんとおもふなり。  答へていはく、当流のおもむきは、信心決定しぬればかならず真実報土の往生をとぐべきなり。さればその信心といふはいかやうなることぞといへば、なにの わづらひ もなく、弥陀如来を一心にたのみたてまつりて、その余の仏・菩薩等にもこころをかけずして、一向にふたごころなく弥陀を信ずるばかりなり。これをもつて信心決定とは申すものなり。信心といへる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころに

1-14 誡誹謗の御文 (かいひほう)のおふみ

イメージ
 おはようございます。今日は天気もよくって本堂に朝日が差し込みサラも一番あったかい場所で朝日を浴びて気持ち良さそうでした。 猫は一番いい場所を見つける天才ですね。😃 お浄土にも猫がたくさんいる事でしょう。 今日は阿弥陀経をお勤めしました。 一緒にお勤めをすることはお釈迦様の教えに身を浸すことです。 最初は難しくても続けるうちに頭ではなく身体に教えが染み込んでくるということがあります。 いまインターネットで僧侶の法話も増えてきて素晴らしいですが、まずはお勤めをしてお話を聞きその後、自分自身に自問自答する。この三点が大切だと思います。この三つが揃って日常の生活の何気ないところに大切な教えがあることに気がつかされるのです。 それでは今日も一緒にお参りいたしましょう! 🙏 誡誹謗の御文 (かいひほう)のおふみ (1ー14)  そもそも、当流念仏者のなかにおいて、 諸法 を 誹謗 すべからず。まづ越中・加賀ならば、 立山 ・ 白山 そのほか諸山寺なり。越前ならば、 平泉寺 ・ 豊原寺 等なり。されば『経』(大経)にも、すでに「 唯除五逆 誹謗正法」とこそこれをいましめられたり。これによりて、念仏者はことに諸宗を謗ずべからざるものなり。また聖道諸宗の学者達も、あながちに念仏者をば謗ずべからずとみえたり。 そのいはれは、経・釈ともにその文これおほしといへども、まづ 八宗の祖師 龍樹菩薩の『智論』(大智度論)にふかくこれをいましめられたり。その文にいはく、「 自法愛染故 毀呰他人法 雖持戒行人不免地獄苦」といへり。かくのごとくの論判分明なるときは、いづれも仏説なり、あやまりて謗ずることなかれ。それみな一宗一宗のことなれば、わがたのまぬばかりにてこそあるべけれ。ことさら当流のなかにおいて、なにの分別もなきもの、他宗をそしること 勿体なき 次第なり。あひかまへてあひかまへて、 一所の坊主分 たるひとは、この成敗をかたくいたすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。   [文明五年九月下旬]1473年 感話 今も昔も宗教同士の争いがあるのですね。痛ましいことです。 そもそも宗教はどんな宗教であっても安らぎを求めたい、共に救われたいという共通の願いがあるはずですが、教えを私が聞くのではなく、人に聞かそうとする時却って人を傷つけてしまうことがあるのです。 平和のために戦争をしたり、子供のた

2-12 人間50年の御文

イメージ
人間五十年の御文 (2ー12)  それ、人間の五十年をかんがへみるに、 四王天 といへる天の一日一夜にあひあたれり。またこの四王天の五十年をもつて、 等活地獄 の一日一夜とするなり。これによりて、みなひとの地獄におちて苦を受けんことをばなにともおもはず、また浄土へまゐりて無上の楽を受けんことをも分別せずして、いたづらにあかし、むなしく月日を送りて、さらにわが身の一心をも決定する分もしかしかともなく、また一巻の聖教をまなこにあててみることもなく、一句の法門をいひて門徒を勧化する義もなし。ただ朝夕は、ひまをねらひて、枕をともとして眠り臥せらんこと、まことにもつてあさましき次第にあらずや。しづかに思案をめぐらすべきものなり。 このゆゑに今日今時よりして、 不法 懈怠にあらんひとびとは、いよいよ信心を決定して真実報土の往生をとげんとおもはんひとこそ、まことにその身の徳ともなるべし。これまた 自行化他 の道理にかなへりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。  時に文明第六、六月 中の二日 、あまりの炎天の暑さに、これを筆にまかせて書きしるしをはりぬ。 感想 今回印象に残った注を下に貼り付けておきますね。四天王って天の一番下のくらいなんですね! でも人間界に近い神様だから親しみがあるのかな? 神様の1日が人間の50年に当たるって面白い考え方ですね。でも地獄の1日はさらに天界の50年分ですから 人間にとっては地獄の1日は250年分に感じるわけです。きついですね! 楽しいことは早く過ぎるし、苦しいことは長く感じるのもそういうわけかもしれません。 四天王 してんのう  四王・四天大王ともいう。 須弥山 しゅみせん の中腹にある四王天にあって、 帝釈天 たいしゃくてん に仕えて仏法を守護する護法神。すなわち 東方の 持国天 じこくてん (Dhŗtarāşţra  題頭隷吒 だいずらた ・ 提頭頼吒 だいずらた )、 南方の 増長天 ぞうじょうてん (Virūđhaka  毘留茶倶 びるだく ・ 毘楼勒 びるろく ・ 毘楼勒叉 びるろくしゃ )、 西方の 広目天 こうもくてん (Virūpākşa  毘留博叉 びるはくしゃ ・ 毘楼博叉 びるはくしゃ )、 北方の 多聞天 たもんてん (Vaiśravaņa  毘沙門天 びしゃもんてん ) をいう。 中の二日 なか-ふつかのひ